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エッセイ
小津安二郎に関するrandamな十一章 …「彼岸花」を中心とした…
「倒錯の森」について
古楽器の意味について
コストラマの国際現代音楽祭
コストロマ市での国際現代音楽祭
エッセー
小津安二郎に関するrandamな十一章 …「彼岸花」を中心とした…
1975.May 29
- 小津安二郎の映画は儀式(結婚、あるいは死)を起点として展開していく。結婚(あるいは死)が人の一生の中での最大のドラマであるとすれば、彼の映画程ドラマティックな映画は無いかもしれない。だが実際には人の一生、またその日常生活の中で行われる儀式でさえも、他人からみればそれはそれ程ドラマティックなものではないのと同じ様な意味で、小津安二郎の映画は「否劇的」な映画と言えるだろう。
- もしかすると虚構(映画)を現実らしく観せることは不自然なことなのかもしれない。いわゆる「社会派」的なリアリズム映画の大半が(その作品自体の優劣とは関係なく)大仰な形で誇張された印象をしばしば与えるように。
- 日常生活そのものを映画にするのではなく、それらしく観せるということ、それも又一種のリアリズムと言えるのだろうか。虚構(映画)は徹底的に虚構(様式的)であることによってリアル(現実らしく)になるということ。
- 小津安二郎の映像は極めて様式化されており、その中の登場人物の動作も(少し注意して観てゆけば)、かなり不自然である。また音楽はかなり繁雑に使われているが、それは「目立たない」音楽であり、ドラマティックなシーンよりは、むしろ(大して)意味のないシーンの方を重点にして、正に背景(バック・グランド)のように挿入される。
- 「彼岸花」は、佐分利信の扮する中年の会社重役の一家と、その周囲の人々、そして長女(有馬稲子)の結婚に関する親子の間での、いざこざと和解の物語である。しかしこの映画で主人公的な者を発見することは難しく、また物語も、それ程の起状(物語を物語らしくするための)もなく、淡々と流れるままにまかされている。これは勿論、意識的なものではあるが………。
- 様式はかなり徹底して統一される。同一の風景は殆ど同じ視点であらわれ、それは季節、あるいは一日の「時」の変化により変奏される。そして映画の冒頭と最終シーンには列車と駅のプラットホームが置かれている。……走り去る列車、過ぎ去って行く「時」。またこの映画の軸となっているのは、ある意味で「世代」の断絶である。それは、単なる親と娘の対立や争いといったものではなく、「死を自覚した者」と「これからなお生き続けて行く者」との間の断絶、しいて言えば両者の間の一条の深い溝とでも言えるだろう。そして、それを小津安二郎はただ提示するだけである。
- ……昨日またかくてありけり、今日もまたかくてありなむ……(そして明日は?)
- 小津の眼は現在から過去へ遡る時、そこに美を発見するようである。そして崩壊する物(それは乱暴にではないが、徐々にそして必ず)にたいする憧憬。彼にとって「時の流れ」は常に現在から過去へ逆流してゆく。そして画面の中に私達が観るものはただ想い出だけ……。
- 小津安二郎の映画を観ている時に感ずる、安らぎのような感覚は、その様式化された画面と同様に、この現在から過去へ遡っていく彼の美意識の中にあるように思われる。
過去を常に現在の調和の源泉と見なすこと、それは旅の途中で振り返って、自分の歩いて来た道程を眺め満足している旅人を想像させる。彼はそのままの姿では旅を続けることは出来ないだろう。先へ進むためには前方(未来)を見つめなければならない。もし人が自分の未来を自分の子供の中に観ているものであるとするならば、小津安二郎の過去への執着を彼の生涯に渡る独身生活に結びつけるということも、また可能であるかもしれない。
- 彼の映画からペシミズムに色どられた、予定調和の世界を消去した時、目の前にあるのはやがて死んでゆく人々の思い出だけである。そしてカメラはそれを神のように観つめている。
- 現実に、私自身が自分の周囲も含めて未来を見つめようとすると、大抵の場合そこには極めて、絶望的な可能性しか見い出すことが出来ない。けれど今は後を振り返って立ち止まってもいられない(ラッシュアワーの駅の階段でそんなことが出来るだろうか、多分、今はそんな世の中なのだ)私にとって、小津安二郎の映画が、すでに過去の時代の映画であるということは、ある意味で幸福なことかもしれない。私は同時代の映画監督達にこの様な映画を望んでいないのだから。もう田中絹代や原節子のような女性の微笑で全てが許されてしまうような過去は存在しない。
「彼岸花」:監督 小津安二郎、1974.某月某日、京橋フィルム・センターにて
(雑誌『黒魔女』創刊号 1975年5月)
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「倒錯の森」について
1975.Oct.14
庄司薫+植草甚一的な文体で一つの小説の書評を書いてみようという実験をしてみました。果たしてそれが成功しているかどうかは読者の判断に任せたいと思います。
なおこのような事を試みて見ようと思った理由の一つに庄司薫の作品に対するサリンジャーの影響(ことに「赤頭巾ちゃん気をつけて」に対する「ライ麦畑の守護神」)ということへの、私なりのごくささやかなパロディーを行いたいということがありました。
何かの為に新しい小説を読まなければならない、ということは、多分あまり愉快な作業ではないだろうという漠然とした予感を抱きながら、一冊の文庫本を買い(ハード・カヴァーの本の価格は、予備知識なしに購入できる程、安くはないので、)読んで見た。
作者の名前の感じから、多分アメリカ、かイギリスの作家で、扉の裏の写真から白人であるのは理解できたし、多分そんなに昔の作品ではない位の事は分かった。出は何故、この本を選んだかと言えばタイトルが気に入ったからなのだが、実際に読んでみると、自分が先入観として持っていた、かなり深刻な小説であろうという期待は裏切られてしまった訳で、かといって、全くシリアスでは無いかと言えば、又そう出もないので、僕の予想通りではなかったのだが、それでも読み終えてみて、やはり読んで良かった(最近はなかなかこういう気持ちにさせる本はないから)というきもちでいる。
以前、J。ボールドウィンの「もう一つの国」を読んだ時、その文章の流れの中にある一種の水々しさの様なものを(勿論、翻訳からではあるのだが)とても新鮮な印象で受けとめた事を覚えていて、その頃割合熱心に読んでいたN.メイラーの作品等と比較したりしながら、アメリカの白人作家達の中にある精神の荒廃みたいな事を思って見たりした事があった。まあその時はそんな風に一括して白人社会とまとめて見ていたのだけれど、後になってフィリップ・ロスとか、その他幾人かの作家の本を読んだり、又あまりシリアスではない本(例えばR.ブラッドベリ等のSF小説の中にある、ある種のヒューマニズムや楽天性)を読んだりしてみるとやはり一概にアメリカの白人社会の荒廃等とひとまとめに出来なくもなってしまう。
サリンジャーという人は巻末の年表を見てみると、同じアメリカのユダヤ系の作家の中でも、アップダイクよりも上の世代、日本で言えば戦中派というあたりのジェネレーションの人物のようで、それはそれで又日本の戦中派の作家達と比べて見ても随分同じジェネレーションでも違うものだなあと思ってみたりもした。
アメリカ社会の中で、そして多分都市の上流階級でのユダヤ人の位置というものに対して何か自信のある事を言える程の知識は僕には無いので、何も言えないのだけれど、サリンジャー自身はかなりの教育を受け、幅広い教養を持ち、おそらくはかなり、鋭い洞察力を持った人物でありながら、彼個人の性格からか、あるいは彼自身の置かれている環境の為だろうか幾分、倒錯とまではいかなくても、かなり屈折した一面を(人間なのだから誰しも屈折した一面は持っているわけだが、ここでは作品を表現する方法として)持っているように感じられた。
「倒錯の森」を第2次大戦の一年後に戦勝国の作家が書いた作品として見てみる事が重要な事かどうかは知らないけれど、物語を始める上での最初の状況設定みたいな事の中に、少し大袈裟に言えば戦争と民族そして階級の違い等といった要素がある事は無視することが出来ないようにも思える。僕は別に作家でも、文学の専門家でもないから、かなり見当外れの見方かも知れないが、この小説は全体の構成の上でも、例えば「フーガ」という題名から、その音楽がどんな感じの(少なくともどんな構成の)曲か誰もが理解出来るように、題名にある「倒錯-inverted-」という題によって作品全体の様式が、実に見事にまとまっている様にも思えるし、又作者自身も恐らくはある意味で、そんな知的な操作を楽しんでいるようにも感じられる。だからというのは変だが、ここの内容としての何か(例えば荒地としての都市文化、あるいはフロイト的な幼児体験の影響etc)を期待しても、それは底の浅いものしか得られないだろうと思える。多分真面目な読み手は小説の最後で見事に作者からの肩すかしを喰わされるだろう。まあこれを一種の不条理文学的な終り方というのも一理あるのかもしれないけれど、僕にとってこの小説の魅力は内容よりも、常に主人公について第三者が語って行くという構成と、そこから読み手自身も常に醒めた状態で物語の進行に付き合って行けるという事(又男性の作者が女性を主人公にしているという事もある意味で倒錯なのかもしれない)。
そしてそれぞれの人物描写が実に適確で面白く、小説の最初の所の主人公の幼年時代の子供達の性格描写は実に巧みなものに思えた。多分サリンジャーは「重大な事を語るのには、あまりにも真面目な」性格なのかも知れない。彼の心の中の森の葉むらは果たして地上に生い繁っているのかどうか‥‥‥。
(雑誌『黒魔女』第3号 1975年10月)
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古楽器の意味について
初めてヴィオラ・ダ・ガンバの生の演奏を聞いたのは”マタイ受難曲”(それもこの時初めて全曲を聴いたのだが)の中のバスのアリアのオブリガートで出て来たときだった。この時の記憶が実はあまりはっきりしていない。むしろぴんとこなかったと言うほうが正しい言い方だろう。
古めかしい、特徴のある音色だが、ピントのぼけた古いセピア色の写真のようで、まことに影が薄く、強引に例えてみるならば、後輩のヴァイオリン族に昇進の先を越された、定年まじかの係長といった、まあ今思い返してみると、そんな所に落ち着くのだ。
そんなわけだから、実はこの6月16日のコンサートも、それ程期待せずに行ってみた。ところがこれが良かったのだ。
何が良かったのか、いろいろあるのだが一つには”マタイ”の時に感じたことの理由が分かったことだ。原因は空間にあった。大きなコンサート・ホールまたはそれ程でなくても多目的ホールとして設計された場では、ガンバの音色の長所は充分には発揮されない。ガンバは音楽之友ホールのような、ホール・エコーの豊かな(そしてこの楽器のインティメートな性格から必然的に求められる)小さなホールで身近に聴いてこそその真価が発揮される。実際、演奏された曲は現代(に書かれた)曲ばかりだったが、楽器自体の持つ表現のツボに入ると驚く程豊かな響き合いをするのには驚かされた。おそらくこれが本来のレパートリーの曲を演奏したならば、その音楽的な喜ばしさは(これは当然のことながら奏者の側により多く)如何ばかりかとおもわず想いを馳せてしまった。
けれども西洋の音楽と、それを表現するものとしての楽器の辿った道と、達成されてしまった成果は、例えば今言ったようなガンバの魅力となる要素を捨てていく道だった。楽器はそれ自体の音色の固有性を犠牲にしてもすべての音をいかに均質にまた速く発音できるか、言いかえれば表現上の多様な要求に対して如何に機能的に対応することができるかということを至上目的とした。そして現在、洋楽器はアコースティックな発音原理をもつ楽器としては一応その極地まで来たと言っていいだろう。これは言い換えれば機能性に基づく多様な表現様式の到達点を示す。現在の所これが流行り言葉で言う”近代の終焉”ということになる。
何か随分と大袈裟な事を書いているようだが、簡単に言えば、どんな新しい(と本人が思っている)表現様式も、すべて”アッ、これ知ってる!”または”なんか前に観た(聞いた)ことがある”でかたづけられ、少なくとも、表現上の(創作、演奏共に!)課題はもうそこには無いという場所に否応なくいるということだ。大半の人々には”だからそれがどうした”という事にすぎないかもしれないし事実そうなのだが、芸術家にとっては正に八方塞がり、出口なし、もしそこに穴があったら入って出て来たくないという程深刻な世の中になってしまったのだ。
何か演奏会評として依頼した人の思惑を飛越て勝手な方向に文章が行ってしまった(ような気がする)が、人を見る目が無かったと後悔してもらうことで、さらに先に進めていく。今言った近代(現代)の行き詰まりに直面した表現者達にとって何が必要か、何か方法があるかと言えば、一つには近代以前の姿、機能化の過程で捨てられていった要素、音楽で言えば機能和声が確立される以前の音楽、またそれを奏する楽器に注目すること、具体的にはヴィオール族等の古楽器は正に古楽器であることの意味を考える事、むしろ古楽器的なものを通じて音楽をみて行く所から、現在から未来につながる道が発見できるかもしれない。
何だ、ちっとも具体的じゃ無いじゃないかという人に対しては、正にそのとうりだと言うことにするし、これが演奏会評かと言われれば(そのような形で組み込まれているならば、誠に責任を感ずるが)、これがこの日の演奏会を聴いて私自身が感じ、そして考えた、今の私にとって最も切実な問題の一つであると答えるしかない。
いずれにしても、この演奏会に誘って下さったガンバ協会の森さんには、感謝の気持ちを記して御許しを願うのみである。
(日本ヴィオラ・ダ・ガンバ協会会報No.38 昭和60年8月31日)
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コストラマの国際現代音楽祭
1994.6.29
モスクワの北から東へ、美しい寺院が並ぶ町が、ほぼ円形に点在している。12〜18世紀のロシア正教会の建造物が多く、丸屋根が黄金色に輝いているため、俗に「黄金の環」と呼ばれ、ロシアの人々の心の故郷でもある。コストラマ(Kostroma日本語のガイドブックではコストロマと表記しているが現地の人はこう発音している)市はこの「黄金の環」の中でも特に歴史の古い町の一つである。周囲を森に囲まれたヴォルガ川の川沿いの静かな町で石や木造りの古い建物が立ち並び、自動車やトロリーバスが走るメインストリートから脇に入るとまるで中世にタイムスリップしたような錯覚に襲われる。旧ソ連邦のころは外国人は入れなかった地域で、もちろん日本人が訪問するのも今回がはじめてである。この町で今年の5月30日から6月4日の六日間にわたって国際現代音楽祭が開催された。参加したのは日本、オランダ、アメリカとロシアの四カ国の音楽家達で室内楽からパフォーマンスまで幅広いプログラムが連日催された。日本からは作曲家の浅香満氏と私を中心に、ギタリストの三浦浩氏とピアニストの黒川智佐さんの二人の若い新進の演奏家とヴィオラの堀越みちこ(私の家内)が加わり、これに私の子供のためのピアノ曲の演奏のために長女のまき(小5)が同行し総勢六名で参加した。音楽祭での日本の演奏会は大変好評で終了後楽屋には多くの人達が詰めかけ我々はその対応にうれしい悲鳴をあげるほどだった。出演者はそれぞれTVのインタヴューを受けたり、地元の新聞の批評も日本の音楽にたいし欄を設けて非常に好意的に書いてくれた。この音楽祭の合間に市内のミュウジック・カレッジとミュウジックスクールを見学する事ができた。限られた紙面の中で今回見聞したロシアの音楽教育制度のことを書かせてもらうことにする。カレッジは日本で言えば中学から高校までに相当しここを卒業すると音楽教師の資格がえられる。またさらに専門家として研鑽を積むものは卒業後各地の音楽大学に進学する。ミュウジックスクールは小学校の生徒を対象にし、子供達は学校にも行きながらここで授業を受けている。この形態は全国で同じ制度になっているそうだ。科目は理論(ソルフェージュ)科と民族楽器も含んだ器楽科にわかれている。理論科の授業の一環として作曲法がミュウジックスクールの段階からすでに組み込まれていて生徒による作品の発表会も行なわれているようだった。スクールやカレッジの生徒は慨して少しはにかみやでおとなしい感じだったが、町でみかけるちいさな子供達は好奇心旺盛でカメラを回しているとそばによって来て話しかけたりしてくる。ロシアでは音楽教育はあくまで専門家や教師を養成するのが目的で、日本のようにそれと並行して一般教養の中で音楽が義務教育のなかにかなり高度な水準で組み込まれているということはないように思われた。日本の音楽教育に関する関心は高く。制度や教育全体のなかでの伝統音楽の割合等に関して学生や教師から逆に活発な質問を受けた。見学の最後にこのカレッジの卒業生がバヤン(アコーディオン)とバラライカを中心にしたロシアの民族楽器でトリオの演奏を聞かせてくれた。バヤンを弾いていた少年はロシアの全国コンクールで2位になった実力の持ち主ということで音楽祭の最終日にはソロでグバイドゥーリナの作品と地元の作曲家で今回の音楽祭の主催者でもあるエレーナ・レーベジェワの作品を演奏しその年齢に似合わぬ自信に満ちた演奏でロシアの演奏家の水準の高さと層の厚さを改めて感じさせられた。こうして我々は音楽祭を無事終了し帰途についた。コストラマの風景と出会った人々との暖かい交流は多くのおもいでとしては参加者全員の心に残り続けるだろう。
(『教育音楽-小・中学版』平成6年8月号)
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コストロマ市での国際現代音楽祭
1994.7.22
今年の5月30日から6月4日までの六日間、モスクワ近郊のコストロマ市で国際現代音楽祭が開催された。コストロマは、モスクワの北東に位置するいわゆる「黄金の環」と呼ばれている地域の都市で、その中でも特に歴史の古い町の一つである。
参加したのは日本、オランダ、アメリカ、ロシアの四カ国の音楽家と、さらにニージニ・ノヴゴロド市(旧ゴーリキー市)から演劇アンサンブルが加わり、室内楽からパフォーマンスまで、幅広いプログラムが連日催された。
当初、この音楽祭は、「黄金の環」と呼ばれているこの地域の中の都市を、巡回しながら開催される、二十日間ほどの音楽祭だったのだが。今年の4月の初めに、急に先方の経済的な事情で延期になった、という連絡を受けた。その後、問い合わせ等やりとりはあったのだが、その月末に、コストロマ在住の作曲家のエレーナ・レーベジェワとモスクワの作曲家のセルゲイ・ジューコフが中心となって、コストロマ市単独での音楽祭の開催をしたいという、意思表示を受けた。ご承知のように、厳しい国情の中で、多分ほとんど経済的な援助も当てにできずに、ほぼ手作りで、何とか音楽祭を開催しようという彼等の情熱には、まことに深い敬意を感じたのだが、しかし、すでに日本側の何人かの演奏家は降りてしまい、私の作品を演奏するウクライナのアンサンブルも、今回参加しないことがわかっていたので、正直にいって私(達)も決定をするまで悩んだことは事実である。
結局、日本からの参加者は、私と共にこの音楽祭に最初から関わっていた作曲家の浅香満氏(かれの粘り強い実行力がなかったならば、おそらく我々の参加は実現していなかっただろう)。そして二人の新進の演奏家、ギタリストの三浦浩氏とピアニストの黒川智佐さん。当初、私は一人で参加する予定だったが、プログラムも変更せざるをえず、急遽、家内の堀越みちこ(Va)と、長女のまき(Pf)も同行することになってしまった。
少なからぬ不安をもっての音楽祭への参加であったが、周囲を森に囲まれた、落ち着いた歴史を感じさせる町の佇まいと、出会った人々との暖かい交流は、我々に多くのおもいでを残すことになった。また、日本の演奏会は大変好評で、この音楽祭の取材にきたニージニ・ノヴゴロド市のTV局から、出演者全員がインタヴューを受けた。我々の演奏会の内容については、コストロマの新聞評をお読み頂ければとおもう。鈴木功さんに翻訳して頂いたものを氏のご好意により掲載させていただいた。
昨年のタタールスタン、今年のコストロマと、私自身は、思いもかけず旧ソ連邦の地域へ二回も訪れてしまったが、そこで感じるのは、『アジア』と『西欧』という二つの文化圏は、ユーラシア大陸を挟んで徐々にそのグラデーションを変えながら連続しているということだ。そしてロシアは正にその中間に位置している。私自身はロシアで『東』と『西』の差異よりも、その混在と連続性ということを強く感じた次第である。
(日本・ロシア音楽家協会会報No.13 1994年8月)
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日いづる国の音楽
6月1日、国際現代音楽祭の催しとして、《日いづる国》の作曲家や演奏家が参加して《日本音楽の夕べ》が行なわれた。フィルハーモニー大ホールの舞台に一番手で登場したのは、ギタリストの三浦浩であった。日本を代表する現代作曲家−武満徹の『フォリオス』、キューバの現代作曲家レオ・ブローエルの『黒いデカメロン』を独奏した三浦は、ギターを絶妙かつ自在に操り、繊細で冴えた楽曲解釈を見せた。魅力的なピアニスト黒川智佐は多彩な演奏手法を駆使して、清水研作の『ドリームズ
イン ポリフォニー』、武満徹の『遮られない休息』、『ピアノ ディスタンス』を弾いたが、それらの曲が内包するイメージ、状況、気分が色鮮やかに描がき出されていた。同じく黒川の演奏による柴田南雄の『ピアノのためのインプロビゼイション』第2番も聴衆には好評であった。
堀越隆一の作品には温かみ、率直さ、誠実さ、インスピレーションが溢れている。
堀越の『仮面劇とシチリア舞曲』(子供のためのピアノ曲)は彼の10歳の娘−堀越まきが演奏した。堀越まきは4歳からピアノを習い、日本では豊富な演奏経験を持つが、外国での演奏はコストラマが初めてである。また、堀越みちこ(ヴィオラ)と黒川智佐(ピアノ)の演奏による堀越隆一の『ソング・ブック』も秀逸であった。日本代表団のメンバーとしてコストロマを訪れたもう一人の作曲家、浅香満の『ヴィオラとギターのための五つの小品』は堀越みちこ(ヴィオラ)と三浦浩(ギター)の演奏により披露されたが、この曲も聴衆の絶賛を博した。
洗練されたイメージと音色を特徴とする日本の音楽はコストロマの聴衆の関心を呼んだが、それにとどまらず、聴衆がそれに対して活発に反応し、好感をもって受け入れたことは喜ばしい限りである。しかも、客席にいたのはプロの音楽家や音楽に詳しい人たちばかりではなかった。教師、俳優、画家、学生、そしてコストロマの子供たちも日本の音楽家に対して温かい拍手を送ったのである。
1994.6.4 コストロマ市新聞評(全文)【N.ヴォローディナ/鈴木功・訳】
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エッセー
音(音楽)は、その瞬間々々に現われては消えていってしまうために、それをイメージの中で再構築するためには、言葉が必要になってくる。そして奇妙なことに、僕達は音を直接表現する言葉を持っていない。多分そのような言葉があったとしても、極めて僅かなものにしか過ぎないし、その時に語られる言葉の大部分は視覚的なイメージを借りていることに気が付く。「暗い音」「音がぶつかっている。」「明るく歌う。」等々。人はずっと昔から、聴覚的なイメージを他の感覚を表現する言葉で語っていたのではないかと僕は思っているのだが、現在でも、音(音楽)は、いつも
「......のような」という表現でしか語ることが出来ない。
なんでこんなことを言いだすかというと、どうやら僕にとって曲を書くきっかけ、カッコよくいえば、自分の発想のモチベーションのなかに、かなりな部分で視覚的なイメージを音に置き換えたいという欲求があるからだ。視覚的な言語によって音楽が考えられることで、言葉は音(音楽)自体とは別の方向へも進んで行く。けれど、それによって、逆に音を視覚的イメージの中でとらえてしまうという恐れもある。つまり言葉に頼って聞いている、こうなるとあまり望ましい状態ではない。言葉は音(音楽)を写す鏡ではあるが、それは歪んだ鏡なのだ。音は視覚的なイメージに依って規定されるが、そのイメージは逆に増幅して音(音楽)に向かっても反射してくる。この視覚的なヴィジョンと音楽との相互作用の中にあるダイナミズムが、多くの作曲家達にとって、彼らの音(音楽)的思考の重要な部分を占めていたと僕は考えている。
作曲家が音を譜面に定着し、演奏家が演奏をする。それぞれが、この不確かな世界に輪郭を与えていく作業なのだ。僕にとって曲を書くという行為も、この無意識に拡散している音のフィールドの中に、ある限定された方法で、音の地図を書いて行くことであると今は思っている。
(国際芸術連盟会報誌『パウゼ』1999年早春号)
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